輪るピングドラム 考察
とその前に、私は寺山修司ファンです。寺山修司は高校の大先輩ということもあり、結構作品も読んでますし、
流れを受け継ぐ劇団の公演をよく観に行ったりもします。故郷を離れた(捨てた?)人間からすると
いろいろこの人に共感する部分が多いんですよね。
寺山修司は「書を捨てよ、町へ出よう」に代表されるいろいろな作品で、「既成概念からの脱却」を描いています。
本質を理解するための手段として、まず本質を否定すること。そのプロセス自体に意味がある、と。
書物を捨てる、親を捨てる、家族を捨てる…否定する・捨てることは重要なプロセスである、という主張です。
では「輪るピングドラム」の個人的な考察です。
幾原監督は寺山修司の影響も受けているということで、ちょっと絡めた形での感想になります。
この作品の主題は「愛による繋がり」と考えてます(ここでいう「愛」とは、恋愛・家族愛・友情とかを含む広義なものです)。
極論すると、作品の持つ意味はこれだけです。この意味を体現するためだけに高倉家を材料としたメタファーをちりばめた、
といっても過言ではないと思います。本当にシンプルです。
この作品で出てくる「愛」に関連付きそうな群を挙げてみるとこんなところでしょうか。
1.高倉家(両親含む)→家族愛
2.冠葉&晶馬&陽毬→兄弟愛
3.真砂子&マリオ&冠葉→兄弟愛(血縁)
4.晶馬&苹果・多蕗&ゆり→恋愛
5.ダブルH&陽毬→友情
(6.企鵝の会・高倉家両親・眞悧・(冠葉)→思想・連帯感)
1~5の重要さを説くために(寺山的観点で)すべきこと。それは1~5を破壊してみることです。
そのために必要になるのが6の存在です。そして6によって破壊されたそれぞれの「愛」を再確認するという
プロセスが群像劇的に表現されたのがこの作品、ということになります。
キーワードであった「ピングドラム」ですが、24話で陽毬が「ピングドラム」として手渡したのは「半分の果実」でした。
半分の果実は直前の檻のシーンでも描かれてますが、相手を思いやるという象徴。そしてそれは
「運命の果実を一緒に食べよう」という陽毬の大事にしている言葉と繋がり、24話のサブタイトルである「愛してる」という言葉に繋がります。
作品中のすべての「ピングドラム」の表現を「愛」と置き換えてみるとしっくりくるかもしれません。
下記個人的な感想です。羅列になりますが。
・「ピングドラム=愛」というよりは、メタファーとして「ペンギン=愛」といっていいかも。1~3号のペンギンは愛の実体化だといえる。
・前半の苹果の奇行は、正しい恋愛の反面教師的な意味合いで後半に際立った。
・ダブルH(トリプルH)の歌が秀逸。政治的な意味を含む攻撃的な歌を子供に一方的に歌わせるということで、子供の傀儡感が演出されてる。
・生命的な生死、存在的な生死の描き分けが良い。「子供ブロイラー」に代表される存在的な死は、死ぬより辛いかも。モブキャラクターの徹底的な記号化も、存在的な死の表現として面白い。
・人の繋がりを地下鉄の路線に模した演出が良い。最終回の「運命の乗り換え」は鳥肌もの。
・どうでもいい話だけど、ペンギンは種によってはヒナを集めて保護する習慣があるらしい。子供ブロイラーっぽい。
2ちゃんねるなんかで感想を漁ってみると、それぞれの表現の整合性が取れないという感想、キリスト教との関連付け、
林檎の数合わせとかのつじつま合わせが見られました。いろいろな解釈があって面白いなぁというのと、
主題がイメージとして伝われば細かいところはどうでもいいじゃない、というのが個人的な感想です。
寺山演劇的な表現に慣れていた、というのが、私が演出に違和感を感じなかったことに繋がるかもしれません。